スタッフブログ

2012/10/03

私の半生 ⑯ 頼もしい跡継ぎとの突然の別れ

 福永さんは須坂市の峰の原高原でペンションを経営しながら、さまざまなイベントの企画を立てていた。毎月数回、子どもたちが集まって熱帯林保護の資金作りのため、アルミ缶リサイクル、農作物作りをしているということであった。
 そして身近な大人たちと自然観察、講演会、音楽会などを行い、子どもたちがさまざまな人たちと接する機会をつくっていた。こうした趣旨のもとで、私が県産カラマツで机や椅子を作っていることを知り、子どもや大人たちに話をしてほしいということだった。私は須坂市峰の原高原へ行き、子どもとちと交流した。
 野溝木工団地では工房と展示ルームを構え、弟子も東京や静岡、栃木県、神戸市から来るようになった。なぜ遠いと所からやってきたのか、よく聞いてみると、各県の技術専門学校や工業試験場などで紹介されたということだった。中には、大学を出て手に技術を付けたいと入門してきた若者もいた。
 大勢のスタッフがそろい、仕事も一人前にできるようになったので机や椅子だけではなく、オリジナルの家具も作った。そのほとんどは注文を受け、設計して作った。年商も1億円以上となり、ますます繁盛した。
 長男は松本工業高校を卒業すると、京都の設計事務所へ勉強に行っていた。2年くらいして戻って来て「城北木材加工」を手伝ってくれるようになった。当然、長男には私の技術と意志を継いでもらうつもりであった。長男もよく承知していて私の言うことをよく聞いてくれた。長男は専務に就き、オリジナル家具も作り、評判が良かった。
 しかし、家具製作業は安い外材やプラスチック材に押され不況に陥った。およそ20社あった同業者も次々廃業していった。長男は著名な家具デザイナーの作品を請け負ってきて、年商を維持することができた。従業員は15人になり、彼らのおかげで注文家具も次々とこなすことができた。
 ところが昨年、平成23年4月、長男が突然亡くなってしまったのである。ソファに座ったまま、くも膜下出血で逝った。60歳だった。
 私は長男にすべてを渡すつもりであった。苦労をかけた妻は17年前、72歳で亡くなっていた。
 私は一人ぼっちになってしまった。
                    (聞き書き・佐藤文子=俳人)