私の半生 ⑭ 現金3千万円 背負って帰る
とにかくがむしゃらに働いた。地道に仕事を続けていると、仕事がお客さんを呼び、また、お客さんが仕事を連れてくるようになった。
東京のホテルから部屋に備え付けの家具などの注文も来て、金額3千万、5千万といった大きな仕事も受けるようになった。圧巻だったのは松屋の仕事で8700万円。松屋が外商で受けた仕事であった。ホテルなどのテーブルやベッドを受注し、そして八王子の創価大学の寮のベッドや椅子、ロッカーなど松屋を通し注文を受けた。
仕事を受注した以上、納期には1日たりとも遅れてならないというのが、私の仕事の鉄則だった。松屋の大きな仕事を受けた時も納期はしっかりと守った。
八王子の創価大学に机や椅子、寮のベッド、椅子、ロッカーなどを納める時がきた。大学は6階建てだったがエレベーターがなかった。私と弟子たちは汗だくになって抱えて搬入した。1971(昭和46)年5月のことであった。
それらを納入した後、松屋が代金を支払うから上京してほしいと言ってきた。私は小切手でもくれるだろうと出かけた。すると現金で3千万円をくれた。全く予想していなかったことで、私は1人で上京していた。現金を千円札で3万枚、大風呂敷に包んで背負って帰ってきた。思えばよく無事に帰れたものである。
一方、カラマツで作り続けていた学童の机と椅子は、松本市内の小学校や中学校、高校などへ売り込みに行ったが、相変わらず反応がなかった。
そこで文部省へ行き、直接お願いした。当時は大島理森文部大臣だったが、「できるだけのことはしましょう」と言ってくださった。文部省としても調査をしたらしく、結果としてカラマツ材を使用した小学校の机と椅子の製作のため、何と松本市へ3700万円の予算をつけてくれたのである。
さらに県からも助成してくれることになり、カラマツを使った机と椅子が導入されることになった。ところが、入札によって他社が採用された。涙をのんだが、やむを得なかった。
しばらくして小学校から連絡が入った。「机と椅子が壊れやすく、直してくれないか」というものであった。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)