私の半生 ⑬ 道のり長く弟子や妻が支えに
国産材、主にカラマツを使用するには発想の転換が必要だと思った。一般家庭用の机やたんすなどを作らず、学校関係の物を作ろうと考えたのである。ちょうどそのころ、タイミングよく林野庁の要請があり、東京・晴海で信州カラマツ製品の展示会をすることになった。
以前から自分で作った物には責任を持つ。それがこの道で飯を食う基本だと考えていたが、これは今も変わらない。晴海での展示会は、かなり大きな反響があった。1978(昭和53)年のことであった。
長野県にはカラマツがたくさんあり、県としてもその活用を勧めていた。私は、まず自分で使ってその良さを実感してみなければ分からないだろうと、県庁と地方事務所、教育事務所、県立高校へ腰掛け10脚を贈った。しかし、何の返答もなかった。
一つの物を作り、世に出して人々に認められるにはあまりにも道のりが長かった。しかし後退はできない。私を信じ、ついてきてくれた多くの弟子たちのためにも頑張らねばならなかった。
カラマツを大量に使うには学童の机や椅子に使うしかない。私は日夜作り続けた。
一方、東京では毎年信州家具展が開催され、私の工房でもカラマツを使わない家具を出品した。丁寧に作っていたのでよく売れた。取り込み詐欺に引っ掛かって、大損をしたこともあった。警察にも届けたが、もっと大きな事件があるからと、取り合ってくれなかった。結局泣き寝入りしてしまった。
また、このような状況になるとまともな判断もできなくなるものである。頼まれて保証人にもなったが、相手がどこかに行ってしまった。弁済のため、初めて高利の金にも手を付けた。
ずいぶん苦しんだが、この時も支えてくれたのは弟子たちだった。弟子がお金を貸してくれると言ってくれた時もあった。私は「気持ちはうれしいが、自分のお金は大事にしておけ」と断った。妻が質屋へ着物を持っていくのを見たが、見ない振りをした。心の中で本当に申し訳ないと思った。
東京へ修行に行っていたころ、親方が「景気は3年良くて7年悪いものだ」と言っていたことを思い出したが、気がつくのが少し遅かった。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)