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2012/09/05

私の半生 ⑫ 銀座でカラマツ家具の展示会

 1966(昭和41)年から翌年にかけて松本市郊外に野溝木工団地ができた。木工製造業を集団化し、通産省指定の助成団地として建設されたものであった。私も木工仲間と交流ができ、仕事も拡張したいと、かねがね思っていたので団地に移ることにを決心した。
 沢村の家と工場と土地を売り、600坪(約2000平方㍍)の敷地を確保することができた。会社の名前は、お城より南の方角になったが「城北木材加工」と、変わらなかった。住居も敷地内に建て、子どもたちもそこから学校へ通った。従業員は、団地内に家具製作組合の独身寮ができたので入居した。今まで妻に従業員の食費などで迷惑をかけたが、それがなくなりほっとした。
 昭和42年ごろ、引越しも済み、仕事も軌道に乗り始めた。そのころ、ホテルの仕事を一緒にしたことのあるデザイナーの松村勝男さんが「銀座の松屋でカラマツノ展示会をやりましょう」と、話を持ってきてくれた。
 デザインは松屋でやってもらうことになった。それは見せるための家具で、売るためのものではなかった。が、とにかくやってみようと取りかかった。
 昭和45年、3年かけてようやくカラマツ家具の展示会が催された。松屋がカラマツの家具を展示すると発表すると、全国紙の一面に大きく取り上げられた。
 それらの家具はデザインも美しく仕上がったが、強度にいちまつの不安があった。極寒地と温暖地での強度試験とそり・くるい、色の変化を見たいと思い、私は沖縄と北海道の知り合いのお宅にテーブルと椅子を4脚、座卓1台を送り、1年間使ってもらい、変化について調べた。
 その結果、寒暖の差があっても何ら異常は見当たらなかった。これならばやれる、使えると自信を持った。それから本格的に生産を始めたのである。
 だんだん注文も来るようになり、2回目の発表会を新宿のギャラリー「フジヱ」で行った。多くの人たちが見に来てくれて、それなりの評価を得ることができた。価格は私自信が付けたが、外国のパインの家具と比べられ、しかも節があるのに高いと言われた。
 私はカラマツに節ややにがあるのは当たり前だし、欠点を生かして素直にそのまま使おう思った。とにかく国産材の良さを皆に知ってもらうことが大事であると思った。
                         (聞き書き・佐藤文子=俳人)