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2012/08/24

私の半生 ⑪ 意地でも成功をと、試行錯誤

 1959(昭和34)年ごろだった。長野県工業試験場工芸部の大日方部長から、「カラマツの脱脂乾燥の技術開発に成功し、長野県として特許権も取れた。このカラマツの製品化に手を貸してほしい」と要請があった。
 私はカラマツを扱ったこともなかったので、しばらくそのままにしておいた。しかし、はたと考えた。他人と同じことをしていたのでは将来がない。他人のまねをすれば恨まれる。価格競争で勝ったとしても残るものは、人の恨みと悪名と借金だけである。何としても独自の物を作らなくてはいけない。
 それから1ヶ月ほどして、私は工芸部長に返事をした。「させていただきます」。何の資料もなく、全くの手探りで始まった。しかし何回作っても気に入らない。作っては壊し続けた。何度もやめようかと思ったが、ここでやめては私の意地が通らない。
 夜中に目が覚め、1人で工場に出て考えることも度々あった。しかし、なんの知恵も浮かばなかった。こんな日が続き、次第に資金繰りも悪くなった。
 同業の仲間からも「あんなカラマツで、物ができるわけがない。少し頭もおかしくなったんじゃないの。あんなことをしていると、いずれはつぶれるぞ」と言われる始末だった。若い者たちからも「大丈夫ですか」と言われた。
 私は「心配するな。おまえたちに食わせないようなことはしないから」と言った。こうなると、意地でも成功させなければと思った。だが、想像以上にカラマツは手ごわかった。
 こうした模索時代が続く中で、白木の外国家具が輸入されるようになり、市場をにぎわせた。白木に比べてカラマツは節がある、色が変わる、やにが出る、といった具合に何を取っても勝ち目はなかった。私は外国の家具のように白く仕上がらないかと、いろいろ試してみた。
 過酸化水素で脱色してみたが、木肌が荒れ、乾燥の時点で有毒ガスを発生することが分かった。とにかく白くしなければ売れないのだ。幾たびも挑戦してみた。ようやく手間を掛けて白木の家具らしいものができあがった。
 カラマツの材料を使っての家具製作に挑戦しながらも一方で、一般的な材料を使用した家具製作は継続していた。それは若い従業員たちがやってくれていた。会社やホテルなどへ家具類を納め、それらは好評だった。
                      (聞き書き・佐藤文子=俳人)