私の半生 ⑨ お礼奉公終え松本で独立
加藤工作所には35人の職人がいた。お礼奉公とはいえ、給料は頂いた。私がなぜか一番高かった。親方はハーレーのサイドカーにも乗せてくれた。給料をもらうと、私は職人を「飯や」に連れて行き、酒や焼酎をごちそうした。
当時加藤工作所は、戦後の復興に乗って景気が良かった。次から次と注文が来た。多忙の中で私は、いずれ独立したいと考えるようになった。いや、来たときから、独立して親に楽をさせてやろうと思っていた。そして親方に頼んで、少し勉強したいと夜学にも通わせてもらった。
1947年(昭和22年)のある日、親方に申し出た。「故郷の松本で独立させてください」と。「自分でやるのは大変だが、頑張れよ」と、親方は思ったよりすんなり送り出してくれた。退職金として300円もらった。
松本市沢村に帰り、準備にかかった。生家のかやぶきの家の畳をはがし、板の間にござを敷いた。東京から持ってきた作業台と道具類だけの出発だった。
仕事に取り掛かるまでにまず電話を引かねばならない。電話はまだ各家庭にない時代だった。公衆電話で電話交換手が出てようやくつながった。
わが家の近くには電話線も来ていなかった。隣町から電柱7本建て、引込んだ。電柱もすべて自腹であった。それぞれの電柱には「峯村引きこみ」という木札が打ちつけてあった。一番に東京の親方に電話を掛け、報告した。
ところがこの電話、商売のために引いたのに、近所の人の呼び出し電話が多くなり大変だった。時には入浴中にかかり、裸で近所の人を呼びに行ったり、時には自転車で呼びに行くこともあった。
仕事の方は手仕事であったが、注文が多く期日までに仕上げるのに忙しかった。ある時、町の赤沢家具店から、もっとたくさん作ってくれと頼まれた。
手作業だから多くはできないと断ると、お金を貸すから機械を入れて仕事してくれと言われた。しかし返す当てがないのでお断りすると、仕事で返してくれればいいと、借用書もなしで当時のお金で3万円貸してくれた。
当時の先生の初任給が4000円弱だった。まさに信用貸しであった。私はそのお金を持って上京した。東京の工作所にいたころ、出入の機械業者に「おまえさんが独立したら応援してやるよ」と言われたのを思い出したのである。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)