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2012/07/06

私の半生 ⑧ 台湾の木工所で仕事をもらう

 1945(昭和20)年1月1日、船は台湾の基隆(キールン)に着いた。
 私たちは基隆の海岸線にタコつぼといわれる穴を掘った。この穴に爆弾を詰めた箱が入り、人間も一緒に入った。上を敵軍の戦車が通ると火をつけて自爆する仕掛けになっていた。いよいよ私も駄目かと思った。
 そして8月15日。日本本土で玉音放送があったことは、3日後に聞いた。信じられなかったが、日本は負けたという。いったい私たちはどうなるのだろうかと、不安だった。1週間もしないうちに中国軍が進駐してきた。ともかく日本に帰りたいと、強く思った。しかし船はないし、食べ物もなかった。
 軍部は、手に職のある者は、ここにとどまり仕事を自分で探せと言った。教師だった者、警官だった者、それぞれ捜し歩き、無事仕事の見つかった者がいた。私は先輩で大工だった福井文一さんと、木工所らしい所へ飛び込んだ。
 私たちは2,3日何も食べていなかった。おなかがすいて足が震えていた。「仕事をさせてください」と声を振り絞った。そこの奥さんが私たちを見るなり芋がゆと小魚を出してくれた。完全に私たちは栄養失調だった。
 その日から住み込みで働いてもよいと、許しを得た。ご主人は黄眞樹さんといった。黄さんは食卓の設計図を見せ、何日でできるかと聞いた。3日でできるか、とも思った。私と福井さんは必死で作り、何と1日半で仕上た。「よくできるな」と、黄さんは、私たちを雇ってくれることになった。
 私と福井さんは、本当に手に職があってよかったなと、喜び合った。最初はとにかく住み込みで食べさせてくれるだけでいいと思った。それ以上望めば、ばちあたると思った。だんだん仕事をさせてもらううちに、給料までもらうようになった。
 昭和21年1月、台北の南、竹南の港から、米軍潜水艦にぎゅうぎゅう押し込まれて鹿児島の港へ帰ることができた。久しぶりに見る日本。それほど感動はなかった。それよりどのようにして生活すべきか考えた。やはり私の帰るところは東京にの加藤工作所しかなかった。
 加藤工作所を訪ねると、幸い親方も元気だった。「お礼奉公をさせてください」と、私は頼んだ。

                      (聞き書き・佐藤文子=俳人)