私の半生 ⑦ 各地を転戦 沖縄で恩受ける
1942(昭和17)年ごろには、親方の代理で入札にも参加するようになった。まだ20歳前の若造を50代、60代の大先輩たちがかわいがってくれて、私も上手につきあった。今では考えられないが、酒の味も少し覚え、料理屋で飲むようにもなった。
だんだんお金もたまり、自分の道具も持てるようになった。職人は自分の道具を大事にして絶対に人には貸さない、見せないのが鉄則だった。特にかんなとは相性があり、他人のかんなは使わなかった。職人同士、お互いに道具自慢をした。
昭和18年1月、松本で徴兵の身体検査を受け、甲種合格した。まもなく召集令状が松本の自宅に届き、松本五十連隊に入隊。3月には敦賀の第十九連隊に配属になり、満州(現中国東北部)へ向かった。
軍隊ではいろいろと鍛えられたが、私は少々のことにはびっくりしなかった。東京の工作所で鍛えられていたのである。
満州はムーリンで演習を行った。氷点下60度という日もあり、凍傷になって指をなくした者もいた。
昭和19年6月、満州鉄道に乗って南方へ向かった。そして船に乗せられ、着いた所は沖縄だった。
沖縄では南城市という所で野営し、陣地構築の日々を送った。何よりつらかったのは食べ物がなく、雑草やヘビ、トカゲなど、食べられそうな物はみんな食べた。たまたま農家を見つけ、食べ物を恵んでもらった。サツマイモが、あんなにおいしく思ったことはなかった。
農家の主は軍隊に行っていたが、奥さんが時々私たちの野営地に食べ物を届けに来てくれた。その人は当山マツさんといって、4人の子どもと生活しておられた。私はこの方の恩が忘れられず、戦後も平成20年に98歳で亡くなられるまで、ずっとおつき合いさせてもらった。
時には配られた蚊帳を用水路に仕掛けて小エビを捕獲したり、手りゅう弾を海に投げて魚を気絶させて捕った。ソテツの実もおいしく、野営地に植えたところ上官から怒られた。
昭和19年10月10日、沖縄大空襲で港の船のほとんどが撃沈された。12月末、私たちは上陸用の小船に乗って沖の貨物船に乗り込み、台湾に向かった。
冬の東シナ海は荒れた。船底で寝ていた者が押しつぶされて亡くなったが、幸い私は、甲板で敵潜水艦の監視をしていて難を逃れた。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)