スタッフブログ

2012/06/19

私の半生 ⑥ よそからの誘い断り、耐える

 何事も経験して覚えていった。校庭に車輪の跡をつけてしまって以来、私は役所と請負師との話がついているかどうか確認するようになった。
 親方は仕事だけでなく人として踏むべき道を何かにつけて教えてくれた。「今日あるのは誰のおかげか。人さまのおかげである。それを忘れてはいけない」と、口癖のように言っていた。そして白いご飯だけは腹いっぱい食べさせてもらった。
 近所に山形県から越してきた鷺巣さんという、元家具職人さんがいた。近所なのであいさつするうちに世間話もするようになった。特に奥さんが可愛がってくれて、「茂ちゃん、おいで」と、白玉団子をごちそうしてくれた。
 1936(昭和11)年ごろ。加藤工作所は板橋区の小学校を2校請け負った。ところが無理をしての落札で、それがあだとなって2000円も欠損してしまった。現在のお金に換算すると、およそ1200万円。住み込みの弟子たちはどこかへ散り、職人たちも全て去ってしまった。残ったのは兄の俊一郎と私だけであった。
 親方は心労で倒れてしまった。私たちは他の木工所からの誘いを受けたが断った。私と兄は、昼間、世田谷、目黒、渋谷とリヤカーで回り、家具の材料を預った。そして夜、加工して賃金をもらった。こんなことが1年余り続いた。
 親方の体もすっかりよくなり、徐々に工作所は立ち直って行った。たまたま親方の専修大学時代の友達が事情を知って、仕事を持ってきてくれるようになった。その友達は東京市の都市計画課や農林省に就職しており、親方が事情を話しに行ったところ、応援してくれたのである。
 みんなで協力して仕事をしていくうちに、工作所は元以上に盛んになった。そして私も工場内で職人たちに仕事を渡すようになり、世話役になった。
 昔は今と違って、3年修行すれば今の若者の10年分修行したほどの腕を身につけた。
 1940(昭和15)年。松本を離れて6年目の正月を迎え、久しぶりに里帰りした。「ただいま」と、玄関の戸を開けたが、家の空気が違っていた。
 両親もどことなく他人行儀で、何か距離を置いて話すようだった。ふるさとに帰ったものの、どこか寂しかった。

                (聞き書き・佐藤文子=俳人)