私の半生 ⑤ どうすれば楽か考えて成長
親方は夕方になると、はかまをはいて専修大学の夜学に通っていた。当時は職人が字を書いたり、本を読むと、「あの野郎、生意気だ」と言われた。が、親方は勤勉だった。私たちに仕事だけでなく、人として守らなければならないこと、人生についてもいろいろ教えてくれた。
1ヶ月の手当ては50銭だった。休みは月に2回あったが、休めなかった。とにかくその日の仕事が終わると、機械の整備と油差し、モーターの分解整備、工具の手入れ、兄弟子の洗濯、繕い仕事で忙しかった。風呂に入っている時が唯一の休みだった。
50銭は自分の道具を買うために蓄えた。かんな1丁50銭から1円だった。自分の道具をそろえたかった。とにかく早く仕事を覚えたい。兄弟子はどんな道具を使っているかも見たかった。夜中にそっと見たかったが、そんな勇気もなかった。いったい仕事ができるようになるのは、いつになるのだろうか。
時々、加工用の材木を取りに新橋まで行くように言われた。朝6時、1人で荷車を引いて、まず三軒茶屋へ、池尻から目黒大坂、渋谷の道玄坂を下り、宮益坂を上がり、青山通り、高樹町からまた坂を上がったり下りたりして帰ると、夜の10時をとっくに過ぎていた。東京は、どうしてこんなに坂が多いのだろうと、つくづくと思った。冬は寒くて困ったが、焼き芋を買って懐に入れ荷車を引いた。
荷物運びは新弟子の仕事でもあった。運んでいると、途中、誰か彼か手伝ってくれた。確かにつらい仕事であったが、親方は多分、材木を運ぶことによって、どうすれば楽に運べるかを考えるチャンスを与えてくれたのであろう。人間は厳しくされたり、つらい思いをすることによって成長するのだと身をもって知った。
1936(昭和11)年。このころは、かなり仕事ができるようになっていた。弟弟子も入り、私は兄弟子となっていた。
ある時、新設の学校へ机や椅子を納めに行った。トラックで校庭に入った。すると校庭に2本の車輪の跡がついてしまった。近くで仕事をしていた土木作業の連中に囲まれて「この始末、どうやってつける気か」。
「役所で納品してもいいと言われたから、納品に来ただけだ」「まだこの学校は引渡しが済んでいない」と怒鳴られた。結局3円弁償し、酒3升を取られてしまった。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)