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2011/11/07

私の半生 ④ 弟子奉公 仕事は見て覚えた

 1934(昭和9)年3月、小学校を卒業した。当時の農家の子どもたちはほとんど小学校を卒業すると、手に職をつけるため、口減らしもあって弟子奉公に出された。高等科2年間に進む者はわずかで、中学に進学するのは4,5人だった。
 父が言った。「お前もこんなことをしていてはいけない。兄のいる東京の木工所へ行きなさい」と。
 隣の竹内明治君も東京のどこかへ奉公に行くことになった。竹内君のお母さんが私の母に聞いていた。「東京って、あっちかね」と言って寂しそうに指を指していた。
 私は兄のいる木工所へ行くことになった。母は「一人前になるまで家に帰ってきてはいけないよ」と、私に言ったが、母の目は潤んでいた。
 上京する朝、駅まで父が送ってくれた。私たちは黙々と沢村から駅まで歩いた。柳こうりや布団は手荷物(チッキ)として貨物で送った。
 新宿に着くと、兄と木工所の奥さんが待ってくれていた。着いたところは加藤工作所。当時の住所で東京市世田谷区若林町にあった。近くには国士舘大学や松蔭神社があり、静かな所だった。
 加藤工作所には兄弟子が6人、職人が30人くらいいて、お手伝いさんが1人いた。みんな住み込みで、私が持って行った布団は先輩の住み込み職人に取られてしまった。上京する前に母が丹精込めて縫ってくれた布団だけに悔しかった。結局その夜、私は部屋にあったせんべい布団に寝た。
 親方は加藤嘉雄さんといい、明治生まれの生粋の江戸っ子だった。仕事は誰も教えてくれず、見て覚えた。
 当時の木工機械は危険度が高く、安全装置などついていなかった。職人の中には、着ていたはんてんが機械に巻き込まれ、片腕をなくしている者もいた。
 新弟子は、朝5時半に起きると、掃除し、機械に油を差し、作業の効率がよくなるように準備をした。すぐに仕事をさせてもらえず、兄弟子の使い走り、手伝いなどをした。ようやく道具を持たせてもらったのは、1年くらいたってからだった。
 夜、夜仕事が終わると仕事場を掃いてござを敷き、ざこ寝した。風呂は近くの銭湯に行った。かんなくずやまきをあげていたので、毎日入ることができた。しかし、いつも終い風呂。時々洗濯もさせてもらった。
            (聞き書き・佐藤文子=俳人)