私の半生 ③ 作った米食べられない切なさ
私の家は、とにかく現金がなかった。文房具を買うために私は家で取れた野菜を町に売りに行った。
堂町に、担任ではなかったが田町小学校の先生が住んでおられた。寺沢先生といった。私は「大根はいりませんか」と、訪ねた。すると先生の奥さんが買ってくれて「大変だろけれど、頑張るのよ」と励ましてくれた。大根を持って勝手口にまわると、大根が積んであった。奥さんは大根があっても買ってくれたのである。私は胸がキューンと痛くなった。
家の手伝いをしない夏の日は、友達と奈良井川に遊びに行った。松島橋の上から川に飛び込んで泳ぐのが得意だった。流れに任せて泳いでいると、新橋まで流れ着いた。
私たちは川から上がると、ほとりにあったスイカ畑にこっそり入り、捨ててあるようなスイカを失敬していただいた。原っぱまで逃げてくると、私たちは石を拾ってきて、それで割って食べた。しかし捨ててあるようなスイカだったせいか全く甘みもなかった。おやつなどない時代、それでもおいしく食べた記憶がある。
友達と遊ばない時は、父が地主の平林さん宅に荷車でお米を持っていくのを手伝った。子ども心に切なかった。どうして父が作った米を私たちが食べられないのだろう。悔しくて、いつか自分たちで作った物は自分たちで食べられるように稼ぐぞと思った。
父の米作りも大変だった。少し裕福な家では牛や馬を使って耕していたが、父は高歯のげたを履いて田んぼの土を踏んで耕し、田植えも草取りも手でやった。時々、私たちきょうだいが手伝った。父にすれば、子どもたちはいい戦力だった。
お風呂は隣の家にもらいに行った。五右衛門風呂で、入るのに苦労した。春や夏の休みの時は、浅間温泉にある「港の湯」に、きょうだいみんなで一日がかりで出かけた。母が、ミカンや芋干しを持たせてくれて、途中県の営運動場で遊んだあと食べた。そして風呂に入り、帰りにまた遊んだ。せっかく風呂に入ったのに、また泥だらけ、汗だらけになって帰った。
小学校を卒業する時が来た。兄の俊一郎はすでに卒業して東京の木工所に修行に出ていたので、私も同じ道を踏むのだと覚悟はしていた。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)