私の半生 ② 厳しくも思いやりのある先生
母に叱られ、押入に入れられた私は、布団の間に頭を突っ込んで空腹をこらえた。すると「おい、茂」という声がした。兄の俊一郎だった。どうやら母の目を盗んで、お釜からおにぎりを作って持ってきてくれたようだった。
多分、母はそんな兄を見てみぬふりをしていたと思う。小学校へ上がる前は近所の子どもたちや妹や弟たちと遊んだ。夕方になると、父が畑から疲れた顔で帰ってきた。「父ちゃんが疲れて帰ってきたから、お酒を買ってきておくれ」と、母は私たちきょうだいに、近くの酒屋までお使いを頼むのだった。
私たちは交代で一合とっくりを持って酒屋に走った。当時父は農閑期になると、土木作業に出ていた。後から聞いたが、日当は60銭だったそうである。当時教員の初任給が50円。土木の仕事がいつもあるわけではなく、農閑期の現金収入に苦労していた。
母は、いつも父に従順で、市場に出した後の不ぞろいな繭を紡いで機織をし、自分の着物にしていた。
昭和3年、松本市田町尋常小学校に入学。3年生に兄がいた。受け持ちは女の先生だった。確か小磯先生と言った。先生には3年生までお世話になった。若く優しい先生だった。私たちはその小磯先生によくいたずらをした。
ある時、ヘビをつかまえて先生の机の引き出しに入れておいた。何も知らずに引き出しを開けた先生はびっくりして家に帰ってしまった。状況を知った校長先生が教室に来て、私たちはひどく叱られた。
小学校4年になると、担任は鈴木節三郎先生になった。先生はいつも竹の棒を持って生徒の机の間を通り、私たちがふざけあったり、宿題を忘れると竹の棒で打った。男子生徒はほとんど打たれた。しかし先生は厳しかったが、とても思いやりがあった。
当時は給食などなく、弁当を持って行った。しかし、貧乏な家庭で、弁当を持って来られない児童がいた。すると先生は「今日はお腹の調子が悪くて昼飯が食べられないから、食べてくれ」と言って食べさせていた。
私の家も貧乏だったが、弁当だけは母が持たせてくれた。もっとも中身は、麦ごはんにたくあんが2切れと梅干が1個だった。それでも弁当が食べられるだけ良かった。
(聞き書き・佐藤文子=俳人)