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2011/11/07

私の半生 ① 暴れん坊のマツ材で家具作り

 太平洋戦争が終息した昭和20年、日本の国土の多くは荒れ、焦土と化した。戦後、次第に住宅や建築物の需要が高まり、成長が早く、加工しやすい針葉樹が植えられた。主に杉やヒノキだったが、この長野県ではカラマツやアカマツが植えられた。
 しかしこれらの木は松材独特のやにが出て、ねじれが出たり、割れやすかったりして職人達に「暴れん坊の木」と呼ばれた。したがって、細かな技術を必要とする家具材には向かないと敬遠されてきた。
 ところがその向かない材料を使って、カラマツの家具を作ってみたのが私である。日本で初めてと言われている。
 カラマツは丸太にすると木口に年輪がくっきりと濃く出て、夏によく成長する夏目と冬の間緻密に成長する冬目がはっきりしている。カラマツは冬目が強く、線が濃いために堅牢(ろう)性と耐久性が高いのである。
 そのカラマツと関わりながら今日まで歩いて来た私は、この1月で90歳になった。一筋の道を歩いている間は長く思えたが、振り返ってみると、あっという間に月日は過ぎ去った。
 私の家は、もともと貧しい農家だった。父秀吉は松本市の大字桐沢村で小作人だった。今でこそ沢村は住宅街になっているが、当時は高台の農地で、家から松本城が見えるほどだった。
 母のきくは、島内小宮の農家出身で、働き者だった。私はその両親のもと、次男として1922(大正11)年1月に誕生した。5男1女の6人きょうだいとして育った。父の作った米は全部地主へ納め、後作の麦や豆等を私たち家族が食べた。農業の他に蚕を飼っていたがそれは結構な現金収入になった。
 父も母も朝から晩まで田んぼや畑に出て、忙しかった。留守番の子どもたちは、ご飯を炊いたり、子守りをした。私と末っ子の弟は13歳も離れていたのでけんかすることもなかったが、すぐ下の弟たちとはつかみ合いのけんかをした
 障子やふすまもよく破ったが、母は修繕することもなく、そのままにしていた。修繕してもすぐ破ることが分っていたからだ。いたずらが過ぎると押入に入れられ、夕ご飯がもらえなかった。
                                       (聞き書き・佐藤文子=俳人)