コラム-history-

私の半生 ⑰ 子どもたちと話がしたい

 2009(平成21)年7月、家具作りにカラマツ材を使用し、長野県産材の普及に貢献したとして第16回信毎賞を頂いた。これまでの努力を認めていただいてとてもうれしかった。
 しかし、ここに来て後継者がいなくなったのだ。城北木材加工を創業して平成24年2月には65年がたったが、これを節目として閉業することにした。これまでの道のりは決して楽なものではなかった。それだけに閉じることは非常にさびしい。
 今まで助けてもらった従業員には、できるだけのことはしたいと思っている。立派な職人に育った者もいるし、それぞれ独立の道を歩いてもらうつもりである。閉業後の注文は、彼らに任せたいと思う。
 閉業と決めた後、途端に忙しくなった。ショールームの整理、命の次だった道具の整理、どれをとっても思い出深いものばかりだ。
 幸い長女が明科に嫁いでいて、何かと私の世話をしてくれたり、閉業の準備の手伝いをしてくれて助かっている。閉業後、敷地や自宅は売却し、これからは老人施設へ入居の予定である。
 娘夫婦も同居を勧めてくれたが、できる限り、自分のことは自分で生活をしていくつもりである。
 私は長い間、学校の子どもたちと接してきたこともあり、機会があれば今後も話がしたい。
 この2月、森林保護団体が企画して私の「話を聞く会」を店のショールームで開いてくれた。定員15人のところ、大勢の皆さんが来てくださった。私は今でも大勢の人たちと接することが好きである。
 老人施設を見学してきたが、元気な方たちもいて、その人たちと交流できることを楽しみにしている。
 会社の机で仕事をしていると、学校帰りの児童たちがよく声を掛けてくれたが、それがなくなるのはちょっとさびしい。
 これからも学校や会社、団体などから山の話、木の話など昔の話をしてほしいとお呼びがかかれば、いつでも飛んで行こうと思う。
 振り返ってみると、90歳なんてあっという間に来てしまった。人生などこういうものかもしれない。苦しくて辛いことがたくさんあったが、私は本当に幸せであった。
 今まで出会った多くの人たちに感謝したい。                          おわり
                             (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑯ 頼もしい跡継ぎとの突然の別れ

 福永さんは須坂市の峰の原高原でペンションを経営しながら、さまざまなイベントの企画を立てていた。毎月数回、子どもたちが集まって熱帯林保護の資金作りのため、アルミ缶リサイクル、農作物作りをしているということであった。
 そして身近な大人たちと自然観察、講演会、音楽会などを行い、子どもたちがさまざまな人たちと接する機会をつくっていた。こうした趣旨のもとで、私が県産カラマツで机や椅子を作っていることを知り、子どもや大人たちに話をしてほしいということだった。私は須坂市峰の原高原へ行き、子どもとちと交流した。
 野溝木工団地では工房と展示ルームを構え、弟子も東京や静岡、栃木県、神戸市から来るようになった。なぜ遠いと所からやってきたのか、よく聞いてみると、各県の技術専門学校や工業試験場などで紹介されたということだった。中には、大学を出て手に技術を付けたいと入門してきた若者もいた。
 大勢のスタッフがそろい、仕事も一人前にできるようになったので机や椅子だけではなく、オリジナルの家具も作った。そのほとんどは注文を受け、設計して作った。年商も1億円以上となり、ますます繁盛した。
 長男は松本工業高校を卒業すると、京都の設計事務所へ勉強に行っていた。2年くらいして戻って来て「城北木材加工」を手伝ってくれるようになった。当然、長男には私の技術と意志を継いでもらうつもりであった。長男もよく承知していて私の言うことをよく聞いてくれた。長男は専務に就き、オリジナル家具も作り、評判が良かった。
 しかし、家具製作業は安い外材やプラスチック材に押され不況に陥った。およそ20社あった同業者も次々廃業していった。長男は著名な家具デザイナーの作品を請け負ってきて、年商を維持することができた。従業員は15人になり、彼らのおかげで注文家具も次々とこなすことができた。
 ところが昨年、平成23年4月、長男が突然亡くなってしまったのである。ソファに座ったまま、くも膜下出血で逝った。60歳だった。
 私は長男にすべてを渡すつもりであった。苦労をかけた妻は17年前、72歳で亡くなっていた。
 私は一人ぼっちになってしまった。
                    (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑮ 自分で作った机と椅子に愛着

 私は「わが社で作った物でなければ直しません」と、きっぱり断った。が、児童が気の毒だと思い直して修繕することにした。
 学校としては結果的に高い物になってしまったようで、以後私のところで作るようになった。
 その後、机や椅子を納めているうちに、教育の一環として、子どもたちが机と椅子を作ればいいのではないかと考えるようになった。それには私のほうでデザインしてキットを作り、組み立てられるようにする。そして机や椅子を友達同士助け合って完成させるのである。
 果たして学校側が子どもたち自身の製作を受け入れてくれるかどうか心配だったが、実行してみると、子どもたちは意気揚々として作り始めた。昨日までけんかをしていた同士が、仲良く助け合いながら組み立てるのである。
 対象は主に4年生以上で、机と椅子を作るのにおよそ3時間かかった。出来上がった物は、私や従業員が点検して仕上げた。
 この活動は、もともとのスタートはカラマツの活用であった。さらに、ただカラマツを使うのではなく、自分で作った机や椅子への愛着を持ち、大切にし、後輩に残していくことが目的でもあった。私が考えた、教育の一環としての机や椅子の製作は一応成功した。
 この様子は、たちまち県内市町村の小学校で話題になり、県外の各地の学校からも注文が来るようになった。私は各学校にキットを持って行き、まず子どもたちの前で私の幼いころを話し、森林の重要性などを伝えて製作に取り掛かるようにした。
 このようにして納品した机や椅子の数は、市内23校と近隣の学校を合わせて累計8700セットに及んだ。
 ある時、須坂市にあるボランティア団体「にっぽんこどものじゃんぐる」の福永一美代表から連絡があり、会いに行った。
 福永さんは「今、日本では輸入材がよく使われている。身近にある国産材を使わねば日本の森林は荒れるばかり。学校の机や椅子の材料は国産材化を考えている。そのために山や木との関係の深い大工さんや、家具職人の方たちと交流の輪を広げている」ということであった。
                   (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑭ 現金3千万円 背負って帰る

 とにかくがむしゃらに働いた。地道に仕事を続けていると、仕事がお客さんを呼び、また、お客さんが仕事を連れてくるようになった。
 東京のホテルから部屋に備え付けの家具などの注文も来て、金額3千万、5千万といった大きな仕事も受けるようになった。圧巻だったのは松屋の仕事で8700万円。松屋が外商で受けた仕事であった。ホテルなどのテーブルやベッドを受注し、そして八王子の創価大学の寮のベッドや椅子、ロッカーなど松屋を通し注文を受けた。
 仕事を受注した以上、納期には1日たりとも遅れてならないというのが、私の仕事の鉄則だった。松屋の大きな仕事を受けた時も納期はしっかりと守った。
 八王子の創価大学に机や椅子、寮のベッド、椅子、ロッカーなどを納める時がきた。大学は6階建てだったがエレベーターがなかった。私と弟子たちは汗だくになって抱えて搬入した。1971(昭和46)年5月のことであった。
 それらを納入した後、松屋が代金を支払うから上京してほしいと言ってきた。私は小切手でもくれるだろうと出かけた。すると現金で3千万円をくれた。全く予想していなかったことで、私は1人で上京していた。現金を千円札で3万枚、大風呂敷に包んで背負って帰ってきた。思えばよく無事に帰れたものである。
 一方、カラマツで作り続けていた学童の机と椅子は、松本市内の小学校や中学校、高校などへ売り込みに行ったが、相変わらず反応がなかった。
 そこで文部省へ行き、直接お願いした。当時は大島理森文部大臣だったが、「できるだけのことはしましょう」と言ってくださった。文部省としても調査をしたらしく、結果としてカラマツ材を使用した小学校の机と椅子の製作のため、何と松本市へ3700万円の予算をつけてくれたのである。
 さらに県からも助成してくれることになり、カラマツを使った机と椅子が導入されることになった。ところが、入札によって他社が採用された。涙をのんだが、やむを得なかった。
 しばらくして小学校から連絡が入った。「机と椅子が壊れやすく、直してくれないか」というものであった。
                       (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑬ 道のり長く弟子や妻が支えに

 国産材、主にカラマツを使用するには発想の転換が必要だと思った。一般家庭用の机やたんすなどを作らず、学校関係の物を作ろうと考えたのである。ちょうどそのころ、タイミングよく林野庁の要請があり、東京・晴海で信州カラマツ製品の展示会をすることになった。
 以前から自分で作った物には責任を持つ。それがこの道で飯を食う基本だと考えていたが、これは今も変わらない。晴海での展示会は、かなり大きな反響があった。1978(昭和53)年のことであった。
 長野県にはカラマツがたくさんあり、県としてもその活用を勧めていた。私は、まず自分で使ってその良さを実感してみなければ分からないだろうと、県庁と地方事務所、教育事務所、県立高校へ腰掛け10脚を贈った。しかし、何の返答もなかった。
 一つの物を作り、世に出して人々に認められるにはあまりにも道のりが長かった。しかし後退はできない。私を信じ、ついてきてくれた多くの弟子たちのためにも頑張らねばならなかった。
 カラマツを大量に使うには学童の机や椅子に使うしかない。私は日夜作り続けた。
 一方、東京では毎年信州家具展が開催され、私の工房でもカラマツを使わない家具を出品した。丁寧に作っていたのでよく売れた。取り込み詐欺に引っ掛かって、大損をしたこともあった。警察にも届けたが、もっと大きな事件があるからと、取り合ってくれなかった。結局泣き寝入りしてしまった。
 また、このような状況になるとまともな判断もできなくなるものである。頼まれて保証人にもなったが、相手がどこかに行ってしまった。弁済のため、初めて高利の金にも手を付けた。
 ずいぶん苦しんだが、この時も支えてくれたのは弟子たちだった。弟子がお金を貸してくれると言ってくれた時もあった。私は「気持ちはうれしいが、自分のお金は大事にしておけ」と断った。妻が質屋へ着物を持っていくのを見たが、見ない振りをした。心の中で本当に申し訳ないと思った。
 東京へ修行に行っていたころ、親方が「景気は3年良くて7年悪いものだ」と言っていたことを思い出したが、気がつくのが少し遅かった。
                      (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑫ 銀座でカラマツ家具の展示会

 1966(昭和41)年から翌年にかけて松本市郊外に野溝木工団地ができた。木工製造業を集団化し、通産省指定の助成団地として建設されたものであった。私も木工仲間と交流ができ、仕事も拡張したいと、かねがね思っていたので団地に移ることにを決心した。
 沢村の家と工場と土地を売り、600坪(約2000平方㍍)の敷地を確保することができた。会社の名前は、お城より南の方角になったが「城北木材加工」と、変わらなかった。住居も敷地内に建て、子どもたちもそこから学校へ通った。従業員は、団地内に家具製作組合の独身寮ができたので入居した。今まで妻に従業員の食費などで迷惑をかけたが、それがなくなりほっとした。
 昭和42年ごろ、引越しも済み、仕事も軌道に乗り始めた。そのころ、ホテルの仕事を一緒にしたことのあるデザイナーの松村勝男さんが「銀座の松屋でカラマツノ展示会をやりましょう」と、話を持ってきてくれた。
 デザインは松屋でやってもらうことになった。それは見せるための家具で、売るためのものではなかった。が、とにかくやってみようと取りかかった。
 昭和45年、3年かけてようやくカラマツ家具の展示会が催された。松屋がカラマツの家具を展示すると発表すると、全国紙の一面に大きく取り上げられた。
 それらの家具はデザインも美しく仕上がったが、強度にいちまつの不安があった。極寒地と温暖地での強度試験とそり・くるい、色の変化を見たいと思い、私は沖縄と北海道の知り合いのお宅にテーブルと椅子を4脚、座卓1台を送り、1年間使ってもらい、変化について調べた。
 その結果、寒暖の差があっても何ら異常は見当たらなかった。これならばやれる、使えると自信を持った。それから本格的に生産を始めたのである。
 だんだん注文も来るようになり、2回目の発表会を新宿のギャラリー「フジヱ」で行った。多くの人たちが見に来てくれて、それなりの評価を得ることができた。価格は私自信が付けたが、外国のパインの家具と比べられ、しかも節があるのに高いと言われた。
 私はカラマツに節ややにがあるのは当たり前だし、欠点を生かして素直にそのまま使おう思った。とにかく国産材の良さを皆に知ってもらうことが大事であると思った。
                         (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑪ 意地でも成功をと、試行錯誤

 1959(昭和34)年ごろだった。長野県工業試験場工芸部の大日方部長から、「カラマツの脱脂乾燥の技術開発に成功し、長野県として特許権も取れた。このカラマツの製品化に手を貸してほしい」と要請があった。
 私はカラマツを扱ったこともなかったので、しばらくそのままにしておいた。しかし、はたと考えた。他人と同じことをしていたのでは将来がない。他人のまねをすれば恨まれる。価格競争で勝ったとしても残るものは、人の恨みと悪名と借金だけである。何としても独自の物を作らなくてはいけない。
 それから1ヶ月ほどして、私は工芸部長に返事をした。「させていただきます」。何の資料もなく、全くの手探りで始まった。しかし何回作っても気に入らない。作っては壊し続けた。何度もやめようかと思ったが、ここでやめては私の意地が通らない。
 夜中に目が覚め、1人で工場に出て考えることも度々あった。しかし、なんの知恵も浮かばなかった。こんな日が続き、次第に資金繰りも悪くなった。
 同業の仲間からも「あんなカラマツで、物ができるわけがない。少し頭もおかしくなったんじゃないの。あんなことをしていると、いずれはつぶれるぞ」と言われる始末だった。若い者たちからも「大丈夫ですか」と言われた。
 私は「心配するな。おまえたちに食わせないようなことはしないから」と言った。こうなると、意地でも成功させなければと思った。だが、想像以上にカラマツは手ごわかった。
 こうした模索時代が続く中で、白木の外国家具が輸入されるようになり、市場をにぎわせた。白木に比べてカラマツは節がある、色が変わる、やにが出る、といった具合に何を取っても勝ち目はなかった。私は外国の家具のように白く仕上がらないかと、いろいろ試してみた。
 過酸化水素で脱色してみたが、木肌が荒れ、乾燥の時点で有毒ガスを発生することが分かった。とにかく白くしなければ売れないのだ。幾たびも挑戦してみた。ようやく手間を掛けて白木の家具らしいものができあがった。
 カラマツの材料を使っての家具製作に挑戦しながらも一方で、一般的な材料を使用した家具製作は継続していた。それは若い従業員たちがやってくれていた。会社やホテルなどへ家具類を納め、それらは好評だった。
                      (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑩ 能力を超えた仕事が命取り

 東京の機械店に行き、手押しかんなと自動かんな、昇降盤と穴彫り機の4台を注文したが、お金は3万円しかないと伝えた。相手は、ずいぶん考え込んでいたが、「よし、おまえさんを見込んで出すことにしよう」と言ってくれた。今これだけの機械をそろえると、300万円は下らない。
 東京から汽車で送られて来た機械は、父が牛車で運んでくれた。大変な仕事だったが、父は「おまえがこれだけの物が買えたなんて、大したものだ」と、とても喜んでくれた。
 次は動力だ。しかし、三相交流の電力線はない。仕方なく西堀の古道具店で見つけたアメリカの中古発動機でクランクシャフトを回すことにした。当時わが家は築100年になっていたが、すごく揺れた。
 材木も木材集積場で丸太を買い、製材してもらい、天然乾燥した。そのころはまだ丸太の良しあしが分からず、だまされて泣いた。
 こうして5年がたった。その間、長兄がニューギニアから復員してきたが、栄養失調で衰弱していた。仕事はできず寝てばかりいたが、しだいに元気になり父の農業を継いでくれた。
 1950(昭和25)年、見合いをした。相手は浅間温泉の豆腐店「まるゐ」の娘さん。喜美子さんといった。私より1歳下だった。とても気だてが良く、私はいっぺんに気に入った。が、相手の親は私の仕事ぶりを見に来たという。幸い気に入ってくれて結婚した。私たち夫婦に長男と長女が授かった。
 一方、弟子が3人入り、工房も手狭になってきたので、近所の土地を借りて120坪(約400平方㍍)の工房を新築した。電力も三相が入り、仕事も順調に進んだ。
 妻は子育てをしながら、住み込みの弟子達の面倒も見てくれた。昭和30年ころである。
 ところが、人間少し調子に乗ると、大きな落とし穴に落ちるものである。自分の分を忘れて能力以上のことをすれば大変な目に遭遇する。
 例えば、売れるからといって三つ重ねたんすを1ロットで100本ずつ作ると当然価格は下がり、同業者から恨まれ、現金取引がいつしか手形となり、資金繰りが苦しくなってくる。つまり自分の能力を超えた仕事が命取りになるのである。
 商売も下り坂になると、その速度は速くなり、まともな判断もできかねるものである。
                        (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑨ お礼奉公終え松本で独立

 加藤工作所には35人の職人がいた。お礼奉公とはいえ、給料は頂いた。私がなぜか一番高かった。親方はハーレーのサイドカーにも乗せてくれた。給料をもらうと、私は職人を「飯や」に連れて行き、酒や焼酎をごちそうした。
 当時加藤工作所は、戦後の復興に乗って景気が良かった。次から次と注文が来た。多忙の中で私は、いずれ独立したいと考えるようになった。いや、来たときから、独立して親に楽をさせてやろうと思っていた。そして親方に頼んで、少し勉強したいと夜学にも通わせてもらった。
 1947年(昭和22年)のある日、親方に申し出た。「故郷の松本で独立させてください」と。「自分でやるのは大変だが、頑張れよ」と、親方は思ったよりすんなり送り出してくれた。退職金として300円もらった。
 松本市沢村に帰り、準備にかかった。生家のかやぶきの家の畳をはがし、板の間にござを敷いた。東京から持ってきた作業台と道具類だけの出発だった。
 仕事に取り掛かるまでにまず電話を引かねばならない。電話はまだ各家庭にない時代だった。公衆電話で電話交換手が出てようやくつながった。
 わが家の近くには電話線も来ていなかった。隣町から電柱7本建て、引込んだ。電柱もすべて自腹であった。それぞれの電柱には「峯村引きこみ」という木札が打ちつけてあった。一番に東京の親方に電話を掛け、報告した。
 ところがこの電話、商売のために引いたのに、近所の人の呼び出し電話が多くなり大変だった。時には入浴中にかかり、裸で近所の人を呼びに行ったり、時には自転車で呼びに行くこともあった。
 仕事の方は手仕事であったが、注文が多く期日までに仕上げるのに忙しかった。ある時、町の赤沢家具店から、もっとたくさん作ってくれと頼まれた。
 手作業だから多くはできないと断ると、お金を貸すから機械を入れて仕事してくれと言われた。しかし返す当てがないのでお断りすると、仕事で返してくれればいいと、借用書もなしで当時のお金で3万円貸してくれた。
 当時の先生の初任給が4000円弱だった。まさに信用貸しであった。私はそのお金を持って上京した。東京の工作所にいたころ、出入の機械業者に「おまえさんが独立したら応援してやるよ」と言われたのを思い出したのである。
                    (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑧ 台湾の木工所で仕事をもらう

 1945(昭和20)年1月1日、船は台湾の基隆(キールン)に着いた。
 私たちは基隆の海岸線にタコつぼといわれる穴を掘った。この穴に爆弾を詰めた箱が入り、人間も一緒に入った。上を敵軍の戦車が通ると火をつけて自爆する仕掛けになっていた。いよいよ私も駄目かと思った。
 そして8月15日。日本本土で玉音放送があったことは、3日後に聞いた。信じられなかったが、日本は負けたという。いったい私たちはどうなるのだろうかと、不安だった。1週間もしないうちに中国軍が進駐してきた。ともかく日本に帰りたいと、強く思った。しかし船はないし、食べ物もなかった。
 軍部は、手に職のある者は、ここにとどまり仕事を自分で探せと言った。教師だった者、警官だった者、それぞれ捜し歩き、無事仕事の見つかった者がいた。私は先輩で大工だった福井文一さんと、木工所らしい所へ飛び込んだ。
 私たちは2,3日何も食べていなかった。おなかがすいて足が震えていた。「仕事をさせてください」と声を振り絞った。そこの奥さんが私たちを見るなり芋がゆと小魚を出してくれた。完全に私たちは栄養失調だった。
 その日から住み込みで働いてもよいと、許しを得た。ご主人は黄眞樹さんといった。黄さんは食卓の設計図を見せ、何日でできるかと聞いた。3日でできるか、とも思った。私と福井さんは必死で作り、何と1日半で仕上た。「よくできるな」と、黄さんは、私たちを雇ってくれることになった。
 私と福井さんは、本当に手に職があってよかったなと、喜び合った。最初はとにかく住み込みで食べさせてくれるだけでいいと思った。それ以上望めば、ばちあたると思った。だんだん仕事をさせてもらううちに、給料までもらうようになった。
 昭和21年1月、台北の南、竹南の港から、米軍潜水艦にぎゅうぎゅう押し込まれて鹿児島の港へ帰ることができた。久しぶりに見る日本。それほど感動はなかった。それよりどのようにして生活すべきか考えた。やはり私の帰るところは東京にの加藤工作所しかなかった。
 加藤工作所を訪ねると、幸い親方も元気だった。「お礼奉公をさせてください」と、私は頼んだ。

                      (聞き書き・佐藤文子=俳人)
 


私の半生 ⑦ 各地を転戦 沖縄で恩受ける

 1942(昭和17)年ごろには、親方の代理で入札にも参加するようになった。まだ20歳前の若造を50代、60代の大先輩たちがかわいがってくれて、私も上手につきあった。今では考えられないが、酒の味も少し覚え、料理屋で飲むようにもなった。
 だんだんお金もたまり、自分の道具も持てるようになった。職人は自分の道具を大事にして絶対に人には貸さない、見せないのが鉄則だった。特にかんなとは相性があり、他人のかんなは使わなかった。職人同士、お互いに道具自慢をした。
 昭和18年1月、松本で徴兵の身体検査を受け、甲種合格した。まもなく召集令状が松本の自宅に届き、松本五十連隊に入隊。3月には敦賀の第十九連隊に配属になり、満州(現中国東北部)へ向かった。
 軍隊ではいろいろと鍛えられたが、私は少々のことにはびっくりしなかった。東京の工作所で鍛えられていたのである。
 満州はムーリンで演習を行った。氷点下60度という日もあり、凍傷になって指をなくした者もいた。
 昭和19年6月、満州鉄道に乗って南方へ向かった。そして船に乗せられ、着いた所は沖縄だった。
 沖縄では南城市という所で野営し、陣地構築の日々を送った。何よりつらかったのは食べ物がなく、雑草やヘビ、トカゲなど、食べられそうな物はみんな食べた。たまたま農家を見つけ、食べ物を恵んでもらった。サツマイモが、あんなにおいしく思ったことはなかった。
 農家の主は軍隊に行っていたが、奥さんが時々私たちの野営地に食べ物を届けに来てくれた。その人は当山マツさんといって、4人の子どもと生活しておられた。私はこの方の恩が忘れられず、戦後も平成20年に98歳で亡くなられるまで、ずっとおつき合いさせてもらった。
 時には配られた蚊帳を用水路に仕掛けて小エビを捕獲したり、手りゅう弾を海に投げて魚を気絶させて捕った。ソテツの実もおいしく、野営地に植えたところ上官から怒られた。
 昭和19年10月10日、沖縄大空襲で港の船のほとんどが撃沈された。12月末、私たちは上陸用の小船に乗って沖の貨物船に乗り込み、台湾に向かった。
 冬の東シナ海は荒れた。船底で寝ていた者が押しつぶされて亡くなったが、幸い私は、甲板で敵潜水艦の監視をしていて難を逃れた。

               (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑥ よそからの誘い断り、耐える

 何事も経験して覚えていった。校庭に車輪の跡をつけてしまって以来、私は役所と請負師との話がついているかどうか確認するようになった。
 親方は仕事だけでなく人として踏むべき道を何かにつけて教えてくれた。「今日あるのは誰のおかげか。人さまのおかげである。それを忘れてはいけない」と、口癖のように言っていた。そして白いご飯だけは腹いっぱい食べさせてもらった。
 近所に山形県から越してきた鷺巣さんという、元家具職人さんがいた。近所なのであいさつするうちに世間話もするようになった。特に奥さんが可愛がってくれて、「茂ちゃん、おいで」と、白玉団子をごちそうしてくれた。
 1936(昭和11)年ごろ。加藤工作所は板橋区の小学校を2校請け負った。ところが無理をしての落札で、それがあだとなって2000円も欠損してしまった。現在のお金に換算すると、およそ1200万円。住み込みの弟子たちはどこかへ散り、職人たちも全て去ってしまった。残ったのは兄の俊一郎と私だけであった。
 親方は心労で倒れてしまった。私たちは他の木工所からの誘いを受けたが断った。私と兄は、昼間、世田谷、目黒、渋谷とリヤカーで回り、家具の材料を預った。そして夜、加工して賃金をもらった。こんなことが1年余り続いた。
 親方の体もすっかりよくなり、徐々に工作所は立ち直って行った。たまたま親方の専修大学時代の友達が事情を知って、仕事を持ってきてくれるようになった。その友達は東京市の都市計画課や農林省に就職しており、親方が事情を話しに行ったところ、応援してくれたのである。
 みんなで協力して仕事をしていくうちに、工作所は元以上に盛んになった。そして私も工場内で職人たちに仕事を渡すようになり、世話役になった。
 昔は今と違って、3年修行すれば今の若者の10年分修行したほどの腕を身につけた。
 1940(昭和15)年。松本を離れて6年目の正月を迎え、久しぶりに里帰りした。「ただいま」と、玄関の戸を開けたが、家の空気が違っていた。
 両親もどことなく他人行儀で、何か距離を置いて話すようだった。ふるさとに帰ったものの、どこか寂しかった。

                (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ⑤ どうすれば楽か考えて成長

 親方は夕方になると、はかまをはいて専修大学の夜学に通っていた。当時は職人が字を書いたり、本を読むと、「あの野郎、生意気だ」と言われた。が、親方は勤勉だった。私たちに仕事だけでなく、人として守らなければならないこと、人生についてもいろいろ教えてくれた。
 1ヶ月の手当ては50銭だった。休みは月に2回あったが、休めなかった。とにかくその日の仕事が終わると、機械の整備と油差し、モーターの分解整備、工具の手入れ、兄弟子の洗濯、繕い仕事で忙しかった。風呂に入っている時が唯一の休みだった。
 50銭は自分の道具を買うために蓄えた。かんな1丁50銭から1円だった。自分の道具をそろえたかった。とにかく早く仕事を覚えたい。兄弟子はどんな道具を使っているかも見たかった。夜中にそっと見たかったが、そんな勇気もなかった。いったい仕事ができるようになるのは、いつになるのだろうか。
 時々、加工用の材木を取りに新橋まで行くように言われた。朝6時、1人で荷車を引いて、まず三軒茶屋へ、池尻から目黒大坂、渋谷の道玄坂を下り、宮益坂を上がり、青山通り、高樹町からまた坂を上がったり下りたりして帰ると、夜の10時をとっくに過ぎていた。東京は、どうしてこんなに坂が多いのだろうと、つくづくと思った。冬は寒くて困ったが、焼き芋を買って懐に入れ荷車を引いた。
 荷物運びは新弟子の仕事でもあった。運んでいると、途中、誰か彼か手伝ってくれた。確かにつらい仕事であったが、親方は多分、材木を運ぶことによって、どうすれば楽に運べるかを考えるチャンスを与えてくれたのであろう。人間は厳しくされたり、つらい思いをすることによって成長するのだと身をもって知った。
 1936(昭和11)年。このころは、かなり仕事ができるようになっていた。弟弟子も入り、私は兄弟子となっていた。
 ある時、新設の学校へ机や椅子を納めに行った。トラックで校庭に入った。すると校庭に2本の車輪の跡がついてしまった。近くで仕事をしていた土木作業の連中に囲まれて「この始末、どうやってつける気か」。
 「役所で納品してもいいと言われたから、納品に来ただけだ」「まだこの学校は引渡しが済んでいない」と怒鳴られた。結局3円弁償し、酒3升を取られてしまった。
              (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ④ 弟子奉公 仕事は見て覚えた

 1934(昭和9)年3月、小学校を卒業した。当時の農家の子どもたちはほとんど小学校を卒業すると、手に職をつけるため、口減らしもあって弟子奉公に出された。高等科2年間に進む者はわずかで、中学に進学するのは4,5人だった。
 父が言った。「お前もこんなことをしていてはいけない。兄のいる東京の木工所へ行きなさい」と。
 隣の竹内明治君も東京のどこかへ奉公に行くことになった。竹内君のお母さんが私の母に聞いていた。「東京って、あっちかね」と言って寂しそうに指を指していた。
 私は兄のいる木工所へ行くことになった。母は「一人前になるまで家に帰ってきてはいけないよ」と、私に言ったが、母の目は潤んでいた。
 上京する朝、駅まで父が送ってくれた。私たちは黙々と沢村から駅まで歩いた。柳こうりや布団は手荷物(チッキ)として貨物で送った。
 新宿に着くと、兄と木工所の奥さんが待ってくれていた。着いたところは加藤工作所。当時の住所で東京市世田谷区若林町にあった。近くには国士舘大学や松蔭神社があり、静かな所だった。
 加藤工作所には兄弟子が6人、職人が30人くらいいて、お手伝いさんが1人いた。みんな住み込みで、私が持って行った布団は先輩の住み込み職人に取られてしまった。上京する前に母が丹精込めて縫ってくれた布団だけに悔しかった。結局その夜、私は部屋にあったせんべい布団に寝た。
 親方は加藤嘉雄さんといい、明治生まれの生粋の江戸っ子だった。仕事は誰も教えてくれず、見て覚えた。
 当時の木工機械は危険度が高く、安全装置などついていなかった。職人の中には、着ていたはんてんが機械に巻き込まれ、片腕をなくしている者もいた。
 新弟子は、朝5時半に起きると、掃除し、機械に油を差し、作業の効率がよくなるように準備をした。すぐに仕事をさせてもらえず、兄弟子の使い走り、手伝いなどをした。ようやく道具を持たせてもらったのは、1年くらいたってからだった。
 夜、夜仕事が終わると仕事場を掃いてござを敷き、ざこ寝した。風呂は近くの銭湯に行った。かんなくずやまきをあげていたので、毎日入ることができた。しかし、いつも終い風呂。時々洗濯もさせてもらった。
            (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ③ 作った米食べられない切なさ

 私の家は、とにかく現金がなかった。文房具を買うために私は家で取れた野菜を町に売りに行った。
 堂町に、担任ではなかったが田町小学校の先生が住んでおられた。寺沢先生といった。私は「大根はいりませんか」と、訪ねた。すると先生の奥さんが買ってくれて「大変だろけれど、頑張るのよ」と励ましてくれた。大根を持って勝手口にまわると、大根が積んであった。奥さんは大根があっても買ってくれたのである。私は胸がキューンと痛くなった。
 家の手伝いをしない夏の日は、友達と奈良井川に遊びに行った。松島橋の上から川に飛び込んで泳ぐのが得意だった。流れに任せて泳いでいると、新橋まで流れ着いた。
 私たちは川から上がると、ほとりにあったスイカ畑にこっそり入り、捨ててあるようなスイカを失敬していただいた。原っぱまで逃げてくると、私たちは石を拾ってきて、それで割って食べた。しかし捨ててあるようなスイカだったせいか全く甘みもなかった。おやつなどない時代、それでもおいしく食べた記憶がある。
 友達と遊ばない時は、父が地主の平林さん宅に荷車でお米を持っていくのを手伝った。子ども心に切なかった。どうして父が作った米を私たちが食べられないのだろう。悔しくて、いつか自分たちで作った物は自分たちで食べられるように稼ぐぞと思った。
 父の米作りも大変だった。少し裕福な家では牛や馬を使って耕していたが、父は高歯のげたを履いて田んぼの土を踏んで耕し、田植えも草取りも手でやった。時々、私たちきょうだいが手伝った。父にすれば、子どもたちはいい戦力だった。
 お風呂は隣の家にもらいに行った。五右衛門風呂で、入るのに苦労した。春や夏の休みの時は、浅間温泉にある「港の湯」に、きょうだいみんなで一日がかりで出かけた。母が、ミカンや芋干しを持たせてくれて、途中県の営運動場で遊んだあと食べた。そして風呂に入り、帰りにまた遊んだ。せっかく風呂に入ったのに、また泥だらけ、汗だらけになって帰った。
 小学校を卒業する時が来た。兄の俊一郎はすでに卒業して東京の木工所に修行に出ていたので、私も同じ道を踏むのだと覚悟はしていた。

                           (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ② 厳しくも思いやりのある先生

 母に叱られ、押入に入れられた私は、布団の間に頭を突っ込んで空腹をこらえた。すると「おい、茂」という声がした。兄の俊一郎だった。どうやら母の目を盗んで、お釜からおにぎりを作って持ってきてくれたようだった。
 多分、母はそんな兄を見てみぬふりをしていたと思う。小学校へ上がる前は近所の子どもたちや妹や弟たちと遊んだ。夕方になると、父が畑から疲れた顔で帰ってきた。「父ちゃんが疲れて帰ってきたから、お酒を買ってきておくれ」と、母は私たちきょうだいに、近くの酒屋までお使いを頼むのだった。
 私たちは交代で一合とっくりを持って酒屋に走った。当時父は農閑期になると、土木作業に出ていた。後から聞いたが、日当は60銭だったそうである。当時教員の初任給が50円。土木の仕事がいつもあるわけではなく、農閑期の現金収入に苦労していた。
 母は、いつも父に従順で、市場に出した後の不ぞろいな繭を紡いで機織をし、自分の着物にしていた。
 昭和3年、松本市田町尋常小学校に入学。3年生に兄がいた。受け持ちは女の先生だった。確か小磯先生と言った。先生には3年生までお世話になった。若く優しい先生だった。私たちはその小磯先生によくいたずらをした。
 ある時、ヘビをつかまえて先生の机の引き出しに入れておいた。何も知らずに引き出しを開けた先生はびっくりして家に帰ってしまった。状況を知った校長先生が教室に来て、私たちはひどく叱られた。
 小学校4年になると、担任は鈴木節三郎先生になった。先生はいつも竹の棒を持って生徒の机の間を通り、私たちがふざけあったり、宿題を忘れると竹の棒で打った。男子生徒はほとんど打たれた。しかし先生は厳しかったが、とても思いやりがあった。
 当時は給食などなく、弁当を持って行った。しかし、貧乏な家庭で、弁当を持って来られない児童がいた。すると先生は「今日はお腹の調子が悪くて昼飯が食べられないから、食べてくれ」と言って食べさせていた。
 私の家も貧乏だったが、弁当だけは母が持たせてくれた。もっとも中身は、麦ごはんにたくあんが2切れと梅干が1個だった。それでも弁当が食べられるだけ良かった。
                                      (聞き書き・佐藤文子=俳人)


私の半生 ① 暴れん坊のマツ材で家具作り

 太平洋戦争が終息した昭和20年、日本の国土の多くは荒れ、焦土と化した。戦後、次第に住宅や建築物の需要が高まり、成長が早く、加工しやすい針葉樹が植えられた。主に杉やヒノキだったが、この長野県ではカラマツやアカマツが植えられた。
 しかしこれらの木は松材独特のやにが出て、ねじれが出たり、割れやすかったりして職人達に「暴れん坊の木」と呼ばれた。したがって、細かな技術を必要とする家具材には向かないと敬遠されてきた。
 ところがその向かない材料を使って、カラマツの家具を作ってみたのが私である。日本で初めてと言われている。
 カラマツは丸太にすると木口に年輪がくっきりと濃く出て、夏によく成長する夏目と冬の間緻密に成長する冬目がはっきりしている。カラマツは冬目が強く、線が濃いために堅牢(ろう)性と耐久性が高いのである。
 そのカラマツと関わりながら今日まで歩いて来た私は、この1月で90歳になった。一筋の道を歩いている間は長く思えたが、振り返ってみると、あっという間に月日は過ぎ去った。
 私の家は、もともと貧しい農家だった。父秀吉は松本市の大字桐沢村で小作人だった。今でこそ沢村は住宅街になっているが、当時は高台の農地で、家から松本城が見えるほどだった。
 母のきくは、島内小宮の農家出身で、働き者だった。私はその両親のもと、次男として1922(大正11)年1月に誕生した。5男1女の6人きょうだいとして育った。父の作った米は全部地主へ納め、後作の麦や豆等を私たち家族が食べた。農業の他に蚕を飼っていたがそれは結構な現金収入になった。
 父も母も朝から晩まで田んぼや畑に出て、忙しかった。留守番の子どもたちは、ご飯を炊いたり、子守りをした。私と末っ子の弟は13歳も離れていたのでけんかすることもなかったが、すぐ下の弟たちとはつかみ合いのけんかをした
 障子やふすまもよく破ったが、母は修繕することもなく、そのままにしていた。修繕してもすぐ破ることが分っていたからだ。いたずらが過ぎると押入に入れられ、夕ご飯がもらえなかった。
                                       (聞き書き・佐藤文子=俳人)


弊社社長 岑村茂 一代記

 こちらのコラムでは本日より信毎タウン情報で掲載される事になりました弊社社長岑村茂の一代記を連載させて頂きたいと思って居ります。 
 大正、昭和の激動の時代を生き、一代で城北木材加工有限会社を築き上げました。昨年4月、後継者であった弊社専務、長男岑村孝久が突然他界し、苦しい毎日を過ごして居りますが、この機に今までの人生を振り返り、皆様にお伝えする事で新たな一歩を踏み出す手がかりとしたいと思います。
 貧しかった幼少期、奉公に出された修行時代、入隊、終戦、起業、結婚、その後と様々な人々との出会い、関わり等をお伝えして参ります。
 今年1月満90歳を迎え、振り返れば実に多くの方々と出会い、どれ程の方々にお世話になったことでしょう。この場をお借りし、今までお世話になった多くの方々に心より深く感謝申し上げます。